私の弁護士41年間を振り返る

1 はじめに
私は,1980(昭和55)年に大阪で弁護士となった。今年で早くも,弁護士41年目となる。その間,いろいろな事件活動に参加してきた。その中心は労働事件(労働者側)と税金事件だった。
私がこのような事件活動を書き記したいと考えたのは,2020年に大先輩の石川元也弁護士と山下潔弁護士が,共に88歳の御高齢でありながら,現役の弁護士として実に数多くの実績を残されていることを知ったからだ。
石川弁護士は,実務家として困難な事件でも常に先頭に立ち,切れ味鋭く事件の本質に迫り,問題解決に導いている。特に刑事事件においては合計で32件もの無罪判決を勝ち取っているというから驚きだ(注①)。
他方,山下弁護士は,豊かな感性に導かれた行動力によって,困難な事件を解決に導いている。例えば,水俣病の事件では現場検証に来た裁判官の眼前で,いきなり鶴嘴を振り上げて穴を掘り,地中に隠されていた汚染物質の水銀を探り当てて,解決に迫るなど,驚くべき行動力が発揮されている(注②)。
それに対し私は,石川弁護士のように「頭が良く切れ味鋭い」という訳でもなく,さりとて山下弁護士のように「人並み外れた感性と行動力をもっている」訳でもない。そんな私の持ち味と言えば,「何事にも辛抱強く,粘り抜くこと」だろう。そして,その粘りでこれまで一定の実績を残してきたことがある。
そこで,41年に及ぶ弁護士としての活動を振り返りつつ,どのように粘り強く頑張ってきたかを御披露してみようと思う。

2 最初の10年間(関西合同法律事務所時代)
私は司法修習生の時,岡山で弁護士をするつもりで,妻京子の実家のある岡山で,実務修習をしていた。そこへ,大阪の関西合同法律事務所から弁護士二人がやってきて,「関戸君,君は大阪へ来ないと後悔するよ」と言って,事務所に誘われた。大阪からわざわざ弁護士が勧誘に来た理由は,東京での前期修習の時,青年法律家協会(青法協)の企画に一緒に参加していた同期の修習生(彼は大阪で実務修習をしていた)が,「岡山に面白い修習生が一人いる」と大阪の関西合同法律事務所の弁護士に私を紹介したためらしい。別段,特に青法協で目立った活動をしていた訳でもないが,学生時代に,当時の自由法曹団団長の上田誠吉弁護士の書いた「国家の暴力と人民の権利」を読み,その中で論じられていた共謀共同正犯理論が,共犯者の自白を利用してフレームアップの理論的な支柱として使われていたことを指摘したり,白表紙による起案をベースとした司法研修所の机上教育を,アメリカのリアリズム法学派の考え方をベースに現実の生きた裁判との違いを指摘し,その問題点を語っていたことから,同期の修習生に「面白い存在だ」との印象を与えたようだった。
私は即座に「後悔するのは嫌だから大阪へ行きます」と返答し,岡山で就職が決まりかけていた弁護士事務所に断りを入れることとした。それは,当時岡山地裁で争われていた岡山スモン事件の弁論で,大阪から被害者側の応援弁論のために参加した弁護士達の迫力ある弁論に圧倒された体験があったからだ。
そのため,大阪では労働事件,公害事件などの著名な事件を経験してみたいと思い,「3年間は大阪で頑張ってみます」と伝えて関西合同に入所することを決めた。しかし,その後40年以上,そのまま大阪で弁護士として活動し続けることなど思いも寄らぬことだった。
当時関西合同は,弁護士10数名を擁する関西で一番大きな共同事務所で,社会的弱者,労働者の擁護等を目的とし民主的な諸課題を取り扱う事務所だった。弁護士は全てパートナーとして参画し,完全給与制だった。完全給与制は事務所全員の一体感を維持するには好都合だが,個々の弁護士にとっては逆に精神的にはかなりきついこともあった。
事務所内には石川弁護士を始めとして労働事件や弾圧事件に習熟した弁護士が複数おり,労働事件に興味を持っていた私にとって大変勉強になる事務所だった。私は主として今はなき河村武信弁護士や西本徹弁護士と一緒に労働事件を担当することによって,その真髄とも言うべき事件のポイントを看取する方策の指導を受けている。
私は活動の中心を,労働事件を取扱う民主法律協会(民法協)の活動に軸足を置くこととした。事務所では,民法協の外に自由法曹団,青法協等の法律家団体のどれかを自分の弁護士活動の中心に据えることが要請されており,各々の弁護士は,毎年2回の事務所総会でその活動状況を報告して各々の活動内容を皆で共有することにしていた。この時期私は民法協の事務局次長をも経験している。
その当時の私の事件数は,一般事件を常時50件以上は持ち,それ以外に労働事件や税金事件・公害事件等の特殊事件を数件ずつ担当していた(私より10年以上の先輩弁護士は一般事件の手持件数が100件を超えていたというから驚きだ)。でも注入するエネルギー量や時間は,後者の特殊事件群が圧倒的に多く,優に全エネルギーの半分を超えていただろう。大体夜の7時以降が特殊事件の打合せ時間となっていた。
それでも私が関西合同に所属していた10年間で,おそらく一般の個人事務所に所属する同期の弁護士の2倍以上の事件を処理したと思う。独立する際には「渉外事件と特許事件以外は担当したことのない事件はない」という状況となっていた。つまり,大抵の事件は,最初の相談の段階で解決の道筋を立てられるようになっていたのだ。これは私にとって大きな財産となったことは言うまでもない。そのかわり,夜9時前に帰宅の途につけることはほとんどない状況だった。
この時期,思い出に残る労働事件では,労働判例集に必ず登載されている東亜ペイント配転解雇事件がある。この事件は,仮処分,一審,二審で労働者が勝訴したものの,会社側から上告され,最高裁から弁論を開く旨の通知があった。
私は,初めて最高裁で弁論を行ったが,出された労働者に厳しい最高裁1986(昭和61)年7月14日判決(その内容は配転の基準を示して,「単身赴任は労働者が通常甘受すべき」とする破棄差戻の判決だった)を批判する小論文を労働法律旬報誌に投稿し掲載されるに至った(注③)。幸いにして,その後,この事件は大阪高裁での差し戻審で,解雇を撤回させ,18年間の闘いを経て職場復帰を果たす全面勝利の和解で解決するに至っている。
さらに税金裁判では課税庁による乱暴な推計課税を打ち破る判決を,立て続けに2件連続で勝ち取ることができ,国は控訴もできずに終わらせている。このことがきっかけで,その後の私の税金弁護士としての方向を基礎付けることとなった。
私の関西合同時代は,労働事件と税金事件の活動を中心にしたもので,この時期に共同事務所の弁護士としての力量をたたき込まれた。関西合同時代の10年間で,私の弁護士の基礎が出来上がったと言っても過言ではない。

3 弁護士10年目から20年目頃の状況
私は個人的事情で10年間所属した関西合同法律事務所を退所してから,大阪府吹田市江坂の地に自分の事務所を持つに至った。当時の大阪ではまだめずらしい郊外での地域密着型の事務所だった。大阪市内の裁判所界隈に,大半の法律事務所が林立している中で,大阪に全く地縁血縁もない私は,比較的自宅に近い御堂筋線沿線の江坂の地に事務所を開設することにした。
当時江坂にはまだ法律事務所は1つもなく,吹田市,豊中市を中心に淀川以北の大阪北部のエリアから,新規依頼者が多く訪れた。その割合は,全事件の7,8割位はあったと思う。私の思惑は当たり,事務所の経営は比較的順調に推移することとなった。やがて自宅を北千里から江坂に移し,職住接近を計った。これにより自宅から事務所まで歩いて通える距離となったことは,肉体的のみならず精神的にも非常に大きいメリットであった。
しかし,関西合同を退所してからは,労働事件は解決に伴い徐々に減り,国鉄の分割・民営化に伴いJR西日本に採用拒否された国労組合員の事件と,組合活動を嫌って解雇された労働者の処分を争う日新化学事件以外はなくなり,必然的に税金事件が中心となっていった。それは,関西合同時代当時の同僚の弁護士が,何故か税金事件を嫌がっていたことにも起因する。私は税金事件も労働事件並に頑張ろうと決めていたため,税金事件は独立後も間断なく私のところへの依頼が続いたからだった。
その頃,「立ち上がれ怒りの納税者たち」(注④)という担当した税金裁判を題材にして,小規模事業者を対象とした税務調査の対応の仕方を伝授した一般啓蒙書を出版し,北は北海道苫小牧から,南は九州熊本まで全国各地を講演して回った。税金事件の依頼をしてきた事業者団体からは,一層の信頼を得ることとなった。
丁度その時期に,大阪国税局幹部との癒着を問題にした同和団体幹部Oのニセ税理士事件をきっかけに「税務署オンブズマン」(その後名称は,「税金オンブズマン」に改訂された)が結成された。これは税務行政に不満を持つ弁護士・税理士や事業者・消費者等を中心に結成された市民組織で,税務行政に苦しめられた納税者を支援することなどを目的としていた。この時に税務署オンブズマンが編集して出版した「税務署をマルサせよ」は,複数の大阪国税局幹部をOが合計1億円近く使って接待して脱税指南を受けたという大阪国税局の闇の実態の内容を広く市民に告発するもので,かなり世間で注目を集めた。(発売当初,大阪梅田の紀伊国屋書店での売上が上位を占めたらしい。)
ところで,独立してから私の事務所で妻京子を法律事務職員として手伝わせることとした。それと軌を一にして,私生活にも大きな変化が発生した。それは,私が弁護士となって10年間は,只管,仕事一筋だったのが,独立して間もなく,私が弁護士1年目から参加していた西名阪自動車道香芝高架橋の「超低周波公害訴訟」が和解によって終結したことが私生活をかえる引き金となっている。それは和解成立後,低周波公害の危険性を訴える「低周波公害裁判の記録」という本(注⑤)を弁護団で執筆し,その編集作業に京子が全面的に協力してくれたからだった。この本は,かなり売れたのでその出版費用で,弁護団とその家族で「南国の楽園」のフィジーに旅行することとなった(勿論京子も参加した)。これが実に楽しい旅行であったことから,以後,毎年京子と二人で海外旅行をすることにしたのである。これで私の弁護士人生は一変した。「仕事の合間に海外旅行をするのではなく,海外旅行に行くために仕事をしよう」と,その位置付けが大きく変わったからである。
私達二人が目指した旅行先は,①フロリダ(ナサとディズニーワールド見学)を初めとして,②ハワイ,③ケアンズ(グレートバリアリーフ),④シドニー⑤パース,⑥南ドイツ(素敵なノイシュバインスタイン城見学),⑦ベネチア(ゴンドラに乗る),⑧グリンデルバルト,⑨ザルツブルグなどであり,世界の目ぼしい都市をレンタカーで走り回り,主として異文化を知る旅だった。知人の弁護士からは「ザルツブルグとベネチアにはカルチャーショックを受けるよ」と言われていた。この2つの都市は,いずれも中世のキリスト教文化の影響を強く受けた素敵な街並みの残る都市だった。
ある時,スイスの保養地サンモリッツから,真っ赤なパノラマカーの氷河特急に乗って,ツェルマットまで10時間以上かけて,時速30km程度でゆっくりとアルプスの山々の間を走り抜ける素敵な列車の旅を経験した。そして,ツェルマットについてからは朝一番で登山電車に乗り,終点のゴルナグラードまで行き,そこからマッターホーンへとつながる3000m級の山々の裾野を歩いた。それは,「逆さマッターホーン」の映る小さな池の付近からゆっくりとなだらかな山道を下るもので,「世界の散歩道」と呼ばれているところだった。私と京子は,これで本格的な山歩き(トレッキング)に目覚めた。以後の海外旅行の目的地は,ニュージーランドやヒマラヤなど専らトレッキングのできる場所へと変化した。
その双璧がヨーロッパアルプスと,カナディアンロッキーをめぐる旅だった。このような私生活の変化は,新しいことにチャレンジすることが好きな京子に引っ張られて(例えば行く先々でスキューバーダイビング等を経験した),色々な観光地を旅行することとなったからだ。仕事一辺倒の関西合同時代とは,180°の転換となったことは言うまでもない。

4 弁護士20年目から30年目の出来事
この時期,私にとって一番大きな出来事は,司法改革に伴うロースクールの発足により,西宮市にある関西学院大学大学院司法研究科(関学ロースクール)の実務家教員として教授に就任したことだった。実務家の中でも行政事件の実務経験のある弁護士はあまり多くはない。そんな中で税金事件の経験の多い私に,行政事件を教えることができる実務家として白羽の矢が立ったようだ。
ロースクールが全国各地に設立されることとなったことに伴い,これまでの最高裁による司法研修所での裁判官養成中心の教育から,日本弁護士連合会(日弁連)が中心となって弁護士の養成を意識したロースクールでの教育改革を実現させようという触れ込みを信じて,私はロースクールの実務家教員に応募するために志望理由書を日弁連に提出した。しかし,現実は全く違った。日弁連の関与ではなく,各大学のロースクール関係者による,めぼしい弁護士への一本釣りが始まったのだ。私は行政事件の実務を教えることができる教員として関学ロースクールに要請されたのである。
私の担当科目は,専門とする「税務争訟法」,「公法実務」の外に「民事ロイヤリング」,「現代人権論」等だった。それ以外にもロースクールらしいものとして「クリニックB」(私の担当内容は税金事件で,学生が私の事務所に来て税金事件の裁判記録を検討しながら弁護団会議にも参加しつつ,生の事件を体験するもの)がある。この科目は,特定の内容に絞った弁護修習そのものであった。
私は精一杯,学生に私の弁護士活動の内容を伝える授業をしたことは言うまでもない。
この時私は担当する税務争訟法の授業内容を「正義教育」の一貫として多くの人に知ってもらおうとその内容を「正義をどう教えるか」というテーマで論文にして発表した(注⑥)。この授業は,私が経験した事件をベースにして作成した具体的設例を前提にして,毎週課題を出して納税者救済の立場で訴状や準備書面等を起案させるものであり,関学ロースクールの授業の中でも相当ハードでレベルの高いものだったと自負している。(勿論毎週受講者全員の課題を添削して返還をするので,私の負担も大きいものだった。)
さてここで,私なりのロースクールの制度の評価を述べておきたい。
関学ロースクールでは,司法改革の理念を忠実に実現するために,かなりユニークなカリキュラムを組み,それなりの成果を挙げていたと思っている。しかし,全国的には司法改革に伴うロースクール制度は失敗に終わったと評価する弁護士が多い。それには文科省の責任がかなり大きいと思っている。何故ならば,文科省の認可のもとで,結果的にロースクールの乱立を許してしまい,過剰な定員のため,年間3000人という従来の2倍以上の合格者増を予定していても当初の触込みの様にロースクールの終了生が「7・8割も受かる試験」となるはずはなく,当初の制度設計が大きく歪められる原因を作ってしまったからである。現在,全国に設立されたロースクールの半数以上が募集停止に追い込まれているのは,その顕れでもある。
そもそも合格者の大幅増を議論した時期がバブル経済の真只中で大量の弁護士の需要が見込まれていた時期であったものが,3000人体制が実施されんとした時には,バブルの崩壊後の日本経済低迷の時期で,需要と供給のバランスが完全に崩れてしまうという悲劇が重なった。あわてて日弁連が「急激な合格者人数増加の抑制」を言い出した時には,多くの修習生には就職難が待ち受けており,経済的にも厳しく,弁護士業の魅力は大きく阻害されてしまっていた。
私は,ロースクールの教員として,学生に弁護士の仕事の魅力を自信をもって語ることができなくなったことは残念でならない。しかも,修習期間の半減により,ロースクール出身の若い弁護士のレベルの低下は顕著であり,弁護士過誤を引き起こさないためにも修習期間を従前の2年に戻すなどの方策を考えるべきだと思っている。
さて,私にとってこの時期の大きな出来事がもう1つあった。それは妻の京子が司法試験を目指して関学ロースクールに入学してきたことだった。京子は大学時代に法学専攻であったため,ロースクールの入学にとりたてて違和感はなかった。しかし,事務所の仕事を手伝いながらの学業は,決して楽ではなかったであろう。そのうえ他の教員からは何かと注目される存在で,私も何となくやりにくいこともあった。
にも拘らず,京子は若い同期入学の学生と共に,毎週日曜日には私の事務所で一緒に司法試験対策のゼミを行い,ロースクールでも上位の成績をとりつつ,見事1回で司法試験に合格した。この時一緒にゼミを組んだ仲間の大半が司法試験に合格しているのは決して偶然ではない。
ところで,私はこの頃担当した税金事件の内容を教科書風に綴って出版した「税金裁判ものがたり」を(注⑦),私の「税務争訟法」のテキストとして使用した。これにより,学生は税金事件の具体的な内容を知ることが出来て一層の興味を持ってもらうことができたと思う。
それ以外に税金オンブズマンの活動の一環として,担当した固定資産国賠訴訟の内容を取り上げた「税の民主化をめざして」(注⑧)や,14年半も物納申請を大阪国税局から放置され続けた物納事件を取り上げた「裁判所は国税局の手先か」(注⑨)などを,税金オンブズマンの代表委員としてメンバーと共同執筆して不当な税務行政を追認した判決内容を世に問うことなどの活動をしている。
この時期,多くの事業者の支援の下で,「固定資産税の増税を争う国賠訴訟」と「高額の登記手数料の支払いを拒否する」集団訴訟を提起している。この2つの訴訟はいずれも国を相手とするものであるから,簡単には勝てないことはわかっている。しかし2件とも,「運動としての裁判」をも,目的として事業者の団体の支援を受けて提訴したものだ。
前者の事件は,「自治省の事務次官による依命通達によって各自治体の課す固定資産税評価を約4倍化しようとしたため,固定資産の評価が時価より高くなったこと(逆転現象)の違法性を争う裁判」で,依命通達での増税を裁判で批判すると,国はその内容を「通達から告示に格上げ」をし,さらに逆転現象が発生しないように評価の時期を可能な限り直近に改定して批判を免れるなど姑息なやり方をした。
後者の事件は「コンピューター化に伴い増額された登記手数料を,コンピューター化が終了したから元の手数料まで戻せ」と要求する裁判で,裁判の途中で法務省は手数料を一部減額して批判をかわすなどした。この種の,国のやり方を批判する集団訴訟は,裁判で負けないために国は立法的に解決してしまうことがあるので裁判での勝ち負けとは別に,目的を実現するという面白い結果となっている(裁判そのものは,残念ながらいずれも敗訴となった)。

5 弁護士30年目以降現在までの状況
さて,この最近10年間での大きな出来事は,京子が弁護士となり,私と一緒に事務所の弁護士業務を担ってくれていることだろう。これでかなり私の負担も軽くなり,事務所の経営も任せるに至っている。そして,この間2人で担当した税金事件を取り上げた「新税金裁判ものがたり」(注⑩)を共同執筆した。この著作は,税金裁判を担当してみたいと考えている若手弁護士や税理士を読者対象として,私のこれまでのノウハウも一緒に全て盛り込んで書き上げたものとなった。その意味で私の税金弁護士としての集大成とも言うべきものと思っている。
もう1つは,私生活面のさらなる変化である。京子の山への目標が,私との「山歩き」から本格的な「山登り」へと変化し,ヨーロッパアルプスの4000級の山々へチャレンジするようになったことだった。勿論,それは,シャモニーの山岳組合の優秀な元オリンピック選手でもあるガイドのサポートによるものだ。
最初は,イタリアアルプスの独立峰で4000mのグランパラディゾから始まり,ヨーロッパアルプス最高峰のモンブラン,次いでモンテローザ,さらにアイガーへと次々と登頂に成功し,ヨーロッパアルプスの中で残された目標とする4000m級の山は,マッターホーンとグランジョラス位だと豪語するまでになっている。
私は体力の衰えもあり,途中から京子の4000m級の山登りについて行けず,専ら京子の山登りのサポート役に徹することとなった。
最近は,シャモニーにある,モンブランがベランダから見渡せる素敵な宿(サボア)で京子の帰りを待ちながら,避暑を兼ねて各種の原稿の執筆に専念できることが大きな楽しみとなっている。
私の41年の弁護士生活を振り返った時,石川弁護士のように数多くの公安・労働事件を担当し,はなばなしい成果を挙げたわけでもなく,山下弁護士のように,瑞々しい感性を持ち続け,若い後輩の弁護士と一緒になって「国境なき刑事弁護団」と称して,外国で日本人の巻き込まれた刑事事件の弁護(無罪判決を獲得している)までも担当する(注⑪)気概もない。
しかし,長年にわたり,粘り強く関与した税金事件を取扱った書籍を何冊か出版することが出来た。これを読めば,現在の税務行政の実態を知ることができ,それを改めさせるため,長年の私の闘いを若い人に引き継いでもらえるかもしれない。「税務行政の民主化の闘い」は,私のライフワークである。
これからあと何年弁護士を続けられるかわからない。でも,何とかして自分の歩んできた足跡を二人の大先輩のように残して,多くの後輩の人達の参考にしてもらい,共に税の民主化のため頑張って欲しいと願っている昨今である。

注① 石川元也著「創意」2020年,日本評論社刊,264頁以下。
注② 山下潔著「裁判余話」2020年,中央印刷株式会社刊,13頁。
注③ 拙稿「配転(単身赴任)命令拒否と懲戒解雇」(1986年労旬1152号)47頁以下。
注④ 拙著「立ち上がれ怒りの納税者たち」1995年,向陽書房刊。
注⑤ 西名阪低周波公害裁判弁護団編著「低周波公害裁判の記録」1989年,清風堂書店刊
注⑥ 拙稿「正義をどう教えるか-税務争訟法の授業を素材にして」2006年,関西学院出版会刊,231頁以下。
注⑦ 拙著「税金裁判ものがたり」2004年,せせらぎ出版刊。
注⑧ 税金オンブズマン編著「税の民主化を求めて」2002年,せせらぎ出版刊。
注⑨ 税金オンブズマン編著「裁判所は国税局の手先か」2013年,せせらぎ出版刊。
注⑩ 関戸一考・関戸京子共著「新税金裁判ものがたり」2019年,メディアイランド刊。
注⑪ 山下潔著「人間の尊厳の確保と司法」2016年,日本評論社刊,317頁以下。